ミニマリスト日記

仕事、子育て、ミニマリズムなど。

子供の教育を考える

嫁のママ友の話を聞くと、子供を私立の小学校に入れて様々な習い事や塾にも通わせている。
私立の小学校というだけで年間100万円以上もかかり、塾も月に10万円もかかるという。
ご主人の経済力には畏怖せざるをえないが、子供の教育にそんなにお金がかかるのかと戦慄する。
僕にも二人の娘がいるからだ。

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自身の学校遍歴から考える子供の教育

ちなみに僕自身は、国立附属→慶應大学という超安上がりルートだ。大学受験も基本的に参考書で
独学したので、予備校は論文対策のため入試直前の冬期講習に行っただけだ。
国立附属の学費はもちろん安い。慶應大学は助成金が多いため、世間のイメージと違って学費は
国立大学並みに安い。早稲田や上智は倍近くするはずだ。
なので僕の娘どもにもオール公立&都立に通わせ、大学受験だけちょっと頑張ってねと考えていた。

学友の中からは「小学校は公立でも良いんじゃない?」とか「公立なんてありえない!」と
賛否両論だった。僕はといえば、年間100万円も使うならそのお金を習い事や海外留学にでも
使った方が有意義なんじゃないかと思っている。
まぁ、僕自身が公立に行ったことがないので正直よくわからない。

子供の学習習慣はなぜ必要か

私立にしろ公立にしろ、学習習慣は必要だ。
なぜなら受験でも仕事でも、大事なのは抽象的概念の理解ゴールから逆算する能力で、
これは学習習慣成功体験を得ることで身につくと思うからだ。

この二つの能力は、実は同じことを表している。

例えば僕の人生目標はQOLを上げ続けることだが、そもそも「QOL」という曖昧な言葉を定義付け、
その目標を達成するためにさまざまな問題やタスクを細分化し日々の活動に落とし込む作業は
まさに、抽象的概念の理解とゴールから逆算する能力が必要になる。

子供も成長すれば中学受験をするかしないか、どの大学に進むか、どんな仕事に就くかは自分で
決めなければならない。そのためにも上記の能力を身につけなければいけないのだが、
それには机に座って読書したり勉強するという学習習慣が必要不可欠だ。

Z会に申し込んでみた

子供にドリルを与えているのだが、楽しいらしくどんどん進めてしまい、幼稚園児でも
二桁の計算や九九、簡単な漢字の読み書きはできてしまう。驚くべき子供の脳みそだ。
この学習意欲を持続させたいので、Z会の通信講座資料を取り寄せてみた。
Z会以外にも学研やドラゼミ、ポピーなどたくさんあるが、僕が大学受験の時にZ会の参考書を
よく使っていたので、なんとなくZ会の資料を取り寄せてみた。
資料とともに参考書のサンプルが届いたのだが、驚くべきは親向けの指導書があること。
この問題を通して子供にどのような力をつけさせたいのか、どのように指導すれば良いのか、
褒め方や間違えた時のフォローの仕方など問題ごとに細かく説明されている。子供が学習する前に、
親が指導書を熟読して勉強しないといけない
のだ。はっきりいって、子供より親の方が大変である。

僕はすごく関心した。
そもそも、子供が勉強をするのに、親が勉強しないのはおかしいと思っていたからだ。
まだサンプル問題を見ただけだが、暗記や問題の解き方ではなく、考え方や思考力を育てようと
していることが明確に伝わってくる。特に中学受験で課せられるような抽象化の激しい問題は、
テクニックや暗記では対応できない。
子供も楽しそうにお試し教材を解いていたので、僕はZ会にそのまま申し込んだ。

子供の教育に最も大事なのは親の成長

僕は今後の日本社会や国際社会でどのような教育が子供の未来を切り開くのか見当もつかない
学歴社会は終わったとか個性が大事だ、これからは世界で働ける人材が必要だという意見もあるが
(僕が子供の頃からあるが…)、見渡せばSAPIXは今も大盛況だし、子供向け英語教室や最近では
プログラミング教室といったものも多い。どれも知識労働者を作ることを目的としている。

しかし一流大学を卒業し大企業に就職したところで、待っているのは不毛な競争と過酷な労働だ。
そして社会の仕組み上、競争を勝ち抜いたエリートといえども決して資産家にはなれない運命なのだ。
僕の大学の学友は皆、世帯年収1,500万円や2,000万円はゆうに超えている。
だが、彼ら彼女らと会うたびに「生活がカツカツだ」という愚痴が始まる。
なぜ世帯年収2,000万円もあって生活がカツカツなのか・・・それは税制度や植えつけられた
社会観念が資産形成をさせなくしている
のだ。残念ながら彼ら彼女らのQOLは決して高くないだろう。

真の人生の豊かさとは何か、個人個人が社会の仕組みを理解し植えつけられた思考を振り払い、
自分自身で考えなければならない
のだ。
子供の成長を願うなら、親が成長し続け、その姿を子供に見せつける必要があるのではないだろうか。